特集:インターネットマナー再考長崎県で起きた女子児童による同級生殺傷事件で、インターネット掲示板やチャットにおけるモラルやマナーが脚光を浴びるようになりました。ところで、昨今の匿名掲示板の書き込みを見ると、あまりにも人に対する配慮のない書き込みが氾濫して読むに耐えません。無責任な言動、人を見下す振る舞い、人の心を逆なでするような暴言など、言葉の暴力にも度が過ぎます。未成年にマナーをとやかく問うよりも、成人がまず自分自身を振り返らなければならないのではないでしょうか。 こうした点をふまえて、インターネットに特化せず日頃忘れがちになっている人との関わりに大切な心得を再考しながら、インターネットマナーについて特集を組んでみました。 ● 思いやりの欠如 人に対する親切心や、相手の心境を察する気持ち、ぬくもりを感じ取る心があまりにもなくなってきているようでなりません。また、人に敬意をもつという姿勢も失われつつあります。人の不幸に「ざまあみろ」と心の中であざ笑ったり、これみよがりと人に言いふらす振る舞いを成人が平然とすればそれはおのずと年下の世代にも浸透します。人の心の痛みを理解する気持ちをもつ、これが人との関わりとして何より大切です。 ● 小さいことに神経質な心 小さいことでも一大事になることが日常生活や仕事の中で多くなりました。また、一点差で人生が変わってしまうこともしばしばあります。そのような毎日を過ごしているとどうしても小さいことに神経質になり、気持ちの余裕すらなくなってしまいます。だからといって、絶えず細かいことに右往左往しているようでは自分を見失うばかりか、つまらないことで他人を振り回す結果にもなります。些細なことを気にしない寛大な心をもつ、それは自分にとって大きな得にもなります。 ● 自分のことを言われるのが嫌なのに他人のことをとやかく言う悪習慣 最近の悪い風潮が、絶えず人の干渉をしたり、悪口や陰口をなりふりかまわず言う振る舞いです。ストレスからくるものが多いのでしょうが、傍らで見ても目に余るものも多くなってきました。同じ事を自分がされるのは嫌うのに、平気で他人にはしてしまう。あまりにも気持ちの小さい、それでいて卑怯な行動です。陰口をいくら吐きだしても心が癒されず、絶え間なく繰り返すのは健康的によくないばかりか、道徳的にも認められない行為といえるでしょう。 ● 自分が嫌なことは人にはすべからず このごく当たり前のわきまえこそ人と接するマナーの基本といえます。それができないようでは、日常生活でもインターネットでも恥知らずのレッテルを貼られるだけなのです。たとえ、インターネットで他人をおとしめる行為がまかり通る場所があったとしても、自分はしてはならないと自制できる強い心をもつことがもっとも大切なのです。平然と人の嫌がることをしているようでは暗い心に支配され、一生抜け出せない泥沼に陥りかねません。マヒする前に自分から気がつく努力がなければ解決しないのです。 ● インターネットだから何を言ってもよいという勘違い いつ頃からこうなったのはわかりませんが、「インターネットなのだから何を言ってもよい」、「ネットは混沌としているから何でもまかり通る」このようなヘリクツを平然と言う人が増えてきました。どこにそのような根拠があるのか、まったく正当性がありません。自分の身勝手を通したいだけの苦し紛れの甘えた言い訳に過ぎないのです。インターネットは人との関わりがあって成り立っているのです。掲示板やチャット、メーリングリスト、すべて心をもった人が一堂に集まっている場所なのです。だからこそ、何をしてもよいなどと言う横暴な理屈はまかり通らないのです。こうした勘違いだけは絶対にしてはなりません。 ● 人に言ってよいこといけないこと 人と関わり合う上で、言ってよい言動、いけない言動、その区別ができなくなっている傾向があります。たとえば、人に向かって「死ね」など絶対に言ってはなりません。しつけに関わるのでしょうが、こうした注意をされなくなっている現状ゆえに、人に対して禁句を平然と吐き捨てる人が増えています。「逝ってよし」という言動がまかり通るのがそのよい例です。言葉を置き換えればよいのではありません。物事分別をわきまえない言動は暴力と同じです。インターネットは互いに顔が見えないだけに人を思いやる気持ちを忘れてはなりません。 ● 的確な日本語表現をしよう 自分が言いたいことを的確な言葉で表現できないのも最近の風潮ではないでしょうか?あいまいでなんとなくみんながわかるような一言で物事をすませようとしています。「うざい」、「キモい」、「ネタ」など、解釈によって微妙にニュアンスが異なる言葉が氾濫しています。実際、どういう意味で使っているのか尋ねても的確に説明できない場合があります。こうした言葉を乱発すれば誤解を招き、行き違いから人間関係を壊すきっかけにもなります。インターネットでは文字でコミュニケーションをするだけに、つまらない誤解から不毛な言い争いへと発展しがちです。きちんとした言葉使いと表現力を身につけるのが必要なのです。 ● 表現の自由は何を言ってもよいという免罪符ではない 自分が追求を受けたり反論をされると苦し紛れに持ち出すのが「表現の自由」です。身勝手な言動をしているのにかかわらず、「表現の自由だ。何を言ったっていいだろう」などと主張するようではもはや言語道断。誰からも相手にされません。なぜなら、身勝手を表現の自由に置き換えることはできないからです。根拠もなく人を中傷すればその人の名誉や人権を侵害します。それは表現の自由として認められません。表現の自由を持ち出せば自分の言い分がまかり通るなど幼稚な考えてあり、一刀両断しなければなりません。これは、周囲の人が毅然として立ち向かわなければなりません。 ● 自分の言動・行動に責任をもつ 掲示板やメーリングリストは大勢の人が参加しているだけに、そこでの言動や振る舞いは責任をもってしなければなりません。匿名だからばれなければ何をしてもよいなど根本から許されません。その自覚がないのをよいことに横暴な振る舞いをしている現状が問題なのです。他人がやっているから自分もしてよいと考えるのではなく、自分は絶対にしてはいけないという自覚意識をもたなければなりません。特にネットでは責任ある行動が要求されます。些細な発言も大声で叫んでいるのと同じです。それを忘れないでください。 私たちの生活でここ数十年の間に急速に忘れ去られているのは、人に対して親切にする心遣いではないでしょうか。まるで、自分が損をするかのようで得のないことにとらわれている気がしてなりません。人の失敗を影であざ笑ったり、自分の正当性を堂々と主張できない気持ちを互いにもっていたら心が卑屈になっていきます。それが蓄積されると衝動的な行為に発展しかねません。インターネットではこうした闇の心が膨張しやすい特徴があります。それを抑える心がけが、インターネット上で特に備えておきたいマナーといえます。当然ながら、それは日常生活でも同じです。今回はネットに特化せず、もっと人との関わり合いの本質的な面からインターネットマナーについて取りあげてみました。ネットの形式的なやりとりではなく、人との振る舞いに重点を置いた再考が必要であると強く感じます。
2004年6月15日発行 第137号
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